この世には価値の高い人間と低い人間がいます。たまに「人間の価値に差はない!全ての人間が等しく同じだけの価値を持っている!」と言う人がいますが、それは間違っていると思います。イチロー選手や将棋の羽生名人やiPS細胞を発見してノーベル賞を取った山中教授などは間違いなく価値の高い人達です。それに対し、ろくに働きもしないニートや犯罪者などが、そういった人達と同じ価値を持っているはずがありません。
では、「人間の価値」というものはどうやって決まるのでしょうか?こう質問すると、多くの人が「能力の高さで決まる」と言うかもしれません。または「人柄が良い」とか「人望がある」とかそういったことで決まるという人もいるでしょう。そういった意見も間違ってはいないと思いますが、少しポイントがずれています。
私が考える人間の価値を決める要因、それは需要と供給です。
何という身も蓋もないことをと思うでしょうが、本当に人間の価値は需要と供給で決まります。それどころか人間に限らず全てのものの価値が需要と供給で決まると言っても過言ではありません。下の図に示す通り、需要が多く、供給が少ないものは価値が高くなり、逆に需要が少ないものや供給が多いものは価値が低くなるのです。こればかりはいつの時代もどこの場所でも変わりません。
例えば、ここにコップ一杯の水があるとします。水は人が生きていくために必要不可欠なものですので、間違いなく需要はありますが、供給も多くあるため価値は高くありません。もしもコップ一杯の水を100円で売ろうとしても買ってくれる人は普通は居ないでしょう。
通常の場面での水の価値
しかし、もしも砂漠のど真ん中で死にかかっている金持ちが居た場合、コップ一杯の水は100万円でも売れるはずです(倫理上の問題はありますが)。
砂漠のど真ん中での水の価値
このように、極限まで供給が少なくなればコップ一杯の水でも非常に高い価値を持つということが分かります。
また、素人が書いた落書きのような絵があったとして、その絵を気に入った物好きな金持ちがその絵に1000万円支払って買って行ったとします。もしそんなことがあれば、その絵を描いた人の所には翌日にも画商が飛んで来て、その人が描いた絵を売って欲しいを言ってくるでしょう。もちろんその人の絵には何一つ芸術的に優れている部分は無いただの落書きではありますが、画商にとっては「彼の絵が1000万円で売れた」という事実の方が大事なのです。

逆に言えば、仮に芸術的に優れた絵であっても、それを欲しがる人間が誰も居なければ、その絵は価値の無い絵になってしまいます。

つまり、絵の価値は「その絵が芸術的に優れているか」ではなく「その絵を欲しがる物好きがいるか」で決まってしまいます。人間の価値も同様です。人の価値は「その人が優れた能力を持っているか」よりも「その人の持つ能力に需要があるか(更に供給が少ないか)」によって決まります。言い換えるなら、人の価値は能力以上に社会全体の需要と供給つまり世相によって決まってしまいます。その結果、高い能力を持ちながら、その能力に需要が無いために無価値とされてしまうような場合も起こりえます。
世の中には高い能力を持ちながら評価されない人がたまにいますが、そういう人は「能力=価値」だと考えているためにそのような事態に陥るのではないかと私は思います。この世の中で価値とはあくまで需要と供給で決まるのであり、「能力=価値」と考えていると思わぬ落とし穴にはまることになります。
例えば、薄型テレビなどの技術者はどうでしょうか?現在日本では薄型テレビの市場は完全に過当競争状態にあります。あらゆる電機メーカーがしのぎを削って高品質なテレビをより低価格で売るという競争が激化したため、薄型テレビはどんどん安くなっていきました。消費者の立場からすれば嬉しいことですが、それを作っているメーカーの側からしてみれば薄型テレビの市場は全く儲からないものになってしまっているのです。そのため、最近では薄型テレビの市場から撤退する電機メーカーも増えてきています。
そして、薄型テレビの市場から撤退した会社の中の薄型テレビの技術者達どうなるでしょうか?若い技術者であれば他の部署に転属するということになるでしょうが、年配の技術者はリストラの対象になることも十分にありえます。つまりどれほど優秀な技術者であったとしても、会社がその能力を必要としていなければ無価値だと見なされてしまうのです。
薄型テレビの市場の話でピンと来ない人がいるかもしれないので、更に極端な話をしてみることにします。想像して頂きたいのですが、もし現代の世の中にドラえもんの「どこでもドア」が発売されたら世界はどうなるでしょうか?より便利になって理想郷に近づくでしょうか?私は世界が大混乱に陥ると思います。犯罪に利用されるということもあるでしょうが、それを差し引いたとしても、大変なことになるはずです。
もし「どこでもドア」が発売されたら?
- 移動や輸送に電車、飛行機、船などは必要なくなるため、鉄道会社、航空会社、船舶会社は全て倒産。
- 車も楽しみ以上の必要性が無くなってしまうため、スポーツカーやレーシングカー以外の市場が消滅し、自動車会社は大幅な業務縮小を迫られる。
- 電車、航空機、船舶、自動車の部品を作っている会社もほとんどが倒産。
- 運送会社も全て倒産。
- 道路や橋やトンネルも必要無くなるので建設産業も大打撃を受ける。
- 地価が大暴落するため、不動産市場が滅茶苦茶になり、不動産会社は大混乱に陥る。

このように、どこでもドアというとんでもなく便利な道具が出現すれば、現在の多くの企業の仕事に対する需要が消滅してしまい、その結果多くの人が仕事を失い、街には大量の失業者が溢れることになります。
また、もしも一粒飲めば全ての病気や怪我を一瞬で治せるスーパー万能薬が発明され、安価に発売されたらどうなるでしょうか?そうなれば医者はただの「物知りな人」でしかなくなり、存在意義が無くなります。そしてほぼ全ての病院は潰れてしまい、医者や看護師はみんな失業者になってしまいます。
もし、スーパー万能薬が発売されたら・・・

要するに優秀な技術者だろうが医者だろうが巨大企業だろうがその価値は需要と供給によって決まり、需要が無くなれば無価値とみなされ、消え去っていく運命にあるのです。そのため、「価値が高い人間」になりたいのであれば、もちろん能力を高める努力も必要ですが、それと同じぐらい自分自身が高めた能力に対する需要が世の中にあるか?供給過剰にならないか?を考えておく必要があります。そこを考えておかないと、せっかく努力して高い能力を身につけたのに、その能力に対する需要が無いため、無価値になってしまうという最悪の事態に陥ってしまうことがありえます。
しかし、逆に言えば、多少能力が低くても世の中の需要をうまく掴めば「価値の高い人間」になることもできるということです。この世の中、特にビジネスの世界では、この需要と供給によって決まる価値というものによって勝敗が決してしまうため、頭の良い人間や能力の高い人間が必ず勝つとは限りません。そのため、世の中の需要を見極め、それに対応することが何をおいても必要になります。
世の中の需要と供給に合わせて自分自身が変わって行くことができれば最も素晴らしいですが、現実にはなかなか難しいものがあります。若い頃であれば、その時代に需要がある能力を新たに身につけることもできるかもしれませんが、年齢が高くなった時に次々と新しいものを高いレベルで身につけていくのは容易ではないでしょう。
そのため、世の中の需要と供給に対応して価値の高い人間になるための現実的な戦略は以下のようなものになると私は考えています。
- 需要が無くならず、供給過剰になりにくいものを見つける
- 自分の価値の根拠となる能力を複数身につけておく
まずは基本戦略として、需要が無くならず、供給過剰になりにくいものを探して、それに対応する能力を身につけることに注力するべきでしょう。更にもしもの事態に備え、自分の価値の根拠となる能力をもう一つ別に身につけることができれば心強いものがあります。
ただ、人には適正やその仕事を好きになれるかどうかという問題もありますので、世の中の需要と供給だけで仕事や身に着ける能力を選ぶべきだと言うつもりはありません。ですが、「好きだから」「自分に向いているから」というだけで需要が無い、または供給過剰な仕事を選ぶことは非常にリスクが高いことであるということは認識しておくべきです。
能力の高い人は自分の能力に自信があるため「自分が価値を持っている」と考えてしまいがちですが、これはとても危険な勘違いです。「価値」とは人が持っているものではなく、あくまで社会から評価されることによって与えられるものであり、「現在の世相がたまたま自分の持つ能力に需要のある状態になっているために価値が与えられている」というぐらいに考えておくべきです。
例えば、ゴッホの絵はゴッホが生きていた時は千円程度の価値もありませんでしたが、現在は何十億円という価値があります。多くの人が「ゴッホが生きていた時代からゴッホの絵には価値があったのに、その価値に社会が気づいていなかった」と考えているかもしれませんが、それは違います。ゴッホの絵はその当時は間違い無く「価値のない絵」だったのであり、現代の世相がたまたまゴッホの絵に対して需要のある状態だから、「価値のある絵」になっているだけです。世相が変化すればゴッホの絵であろうとまたゴミ同然の価値になることも有り得えます。
ゴッホの絵ですらそうなのですから、人間の価値も世相の変化によって簡単に様変わりするということは肝に銘じておくべきです。