若者に対して、「君たちには無限の可能性がある」と言う人がたまにいます。しかし、私はこの「無限の可能性」という言葉がどうしても好きになれません。この耳触りの良い言葉には非常に大きな危険が潜んでいるように感じるのです。

 

可能性は有限である

私は若者に「無限の可能性がある」と言うことは有害だと考えています。何故なら、若者は確かに多くの可能性を持っていますが、その可能性は有限であり、断じて無限などではないからです。どれだけ多くの可能性を持っていても、ダラダラと過ごしていれば、その貴重な可能性は一日ごとに減っていくということをきちんと認識しなくてはなりません。

“無限にある”という認識が危険な理由は、そのように認識していたら”いくらでも無駄遣いして良い”と考えてしまうところにあります。想像して頂きたいのですが、もしお金が無限にあったら、とんでもない無駄遣いをするでしょう。もし不老不死になって時間が無限にあったら、時間を無駄にしてダラダラと過ごしてしまうことでしょう。

そもそも、この世に”無限”など無いのです。それなのに「自分は無限の可能性を持っている」などという認識をしていたら、一度しかない人生において、有限である可能性や時間を浪費してしまうことになります。世の中のことを良く知らない若者に対して、”無限”などという言葉を軽々しく使うべきではないと私は思います。

 

可能性の段階では意味が無い

“可能性がある”ということは素晴らしいことではありますが、可能性の段階では何の意味もありません。例えば、勝つ可能性が90%の勝負であっても、負けてしまっては意味が無いのです。成功の可能性が99%でも失敗しては意味が無いのです。可能性はあくまで可能性であり、意味は勝利した時や成功した時に初めて生まれます。

高校生や大学生ぐらいの若者は確かに多くの可能性を持っています。しかし、彼らのほとんどは若さと未来への可能性以外のものを持っていません。大人は全員ではありませんが、お金、能力、地位、権力、人脈、信用などの”人生の資産”と呼べるものを若者よりも多く持っています。これらを持っている大人は若者の時から懸命に努力してそれらを得てきたのです。言い換えるなら、努力によって自分の可能性をそれらの人生の資産に換えてきたということです。

若者が何も努力をせず、無為に過ごして唯一持っている”可能性”すら無くしてしまったらどうなるでしょうか?その時は、”人生の資産”も”可能性”も何も持っていない惨めな中年になってしまうのです。お金もない、能力もない、地位もない、権限もない、人脈もない、信用もない、そして未来への可能性もない、そんなないない尽くしの惨めな年寄りになって良いのでしょうか?その恐ろしさに気づいた時には大抵が手遅れなのです。

 

私は、若者に「無限の可能性がある」などと言う耳触りの良い言葉を言うよりも、

  • 可能性は有限であり、無為に過ごせばあっという間に無くなってしまう。
  • 可能性の段階では何の意味も無い。

という現実をはっきりと教えるべきだと考えています。