晴れ男、雨男という言葉があります。その人がいる時はいつも晴れになるのが晴れ男で、その人がいるといつも雨になるのが雨男です。しかし、本当にそのようなものがあるのかと言えば、これは自信を持って断言できますが、そんなものは絶対にありません。普通に考えて、一人の人間がそこにいるかどうかで、気象条件に影響を与えることなどあるはずがないのです。

まぁ「俺は雨男だから」と言う人も本気で言っている訳ではないでしょうが、いわゆる晴れ男、雨男というものは気象に影響を与えるなどということではなく、一種の思考の癖によるものなのでしょう。

 

雨男とは「自分のせいで~」と考える癖がある人

私が考えるに、雨男とは「自分のせいでこのようになった」というふうにマイナスに考える癖がある人なのでしょう。普通に生きていれば、大事なイベントが雨で台無しになってしまったという経験を誰しも何度かはしたことがあるはずです。その時に「自分が屋外で何かしようとすると雨になる」という勝手な思い込みをする人がいるのでしょう。もちろんその人の人生で、大事なイベントで晴れになったこともあるはずですが、晴れになった時のことは忘れて雨になった時のことばかり覚えている人が”雨男”になるのです。

自分の存在が気象条件に影響を与えると本気で思っている人はさすがに少ないでしょうが、例えば何かの集まりで「あの人がつまらなさそうにしているのは、私がいるからかな?」などと考えてしまう、人間関係の雨男(雨女)というのは結構いるでしょう。このような考えは、ありもしない責任を過剰に感じている状態であると言えます。責任を取ることは非常に大事なことですが、過剰な責任を不必要に感じすぎるのものまた問題です。

 

過剰に責任を感じすぎない

少し前の話なのですが、息子の幼稚園参観で、妻は部屋の中で遊んでいる息子のそばにいたらしいですが、その時に息子と一緒に遊んでいた子が別の子とおもちゃを取り合ってけんかになったそうです。妻はそのことについて「私(妻)がいたせいでけんかになったのかな?」というようなことを言っていました。ですが、息子がけんかをした訳でもなく、別の子同士がけんかをはじめた原因が、そこにたまたまいた妻にあるはずがありません。そもそも子供同士でおもちゃを取り合ってけんかをすることぐらいいくらでも起こることです。そんなことにいちいち責任を感じていたらきりがないでしょう。

そのため、私は「全然関係ないからそんなことに責任を感じる必要などない」と言いました。妻のように、つい「自分のせいで~」と考えて過剰な責任を抱え込んでしまうと、ストレスが増大することになりかねません。

そのような発想をする人は自分を責める傾向があるように見えますが、“責任を取ること”と”自分を責めること”は全く違います。責任と取るということは事前対策を打つことや再発防止の仕組み作りをすることであり、自分を責めることではないのです。そもそも、何かの出来事に対して、勝手に責任を感じて自分を責める人がいたとしても、周りの人には何のメリットも無いのです。そのような時は、自分に何が出来るか(出来たか)を考え、自分の力の及ばないことには仕方ないと割り切るしかないのです。

「七つの習慣」では、自分がコントロールできない問題への心構えについて以下のように書かれています。

自分ではコントロールできない問題の場合には、その問題に対する態度を根本的に改める必要がある。どんなに気に入らなくとも、自分の力ではどうにもできない問題なら、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれらを受け入れて生きるすべを身につける。こうすれば、そのような問題に振り回されることはなくなる。アルコール依存症の更生団体、アルコホーリクス・アノニマスのメンバーが唱える祈りは、まさに的を射ている──「主よ、私に与えたまえ。変えるべきことを変える勇気を、変えられないことを受け入れる心の平和を、そしてこれら二つを見分ける賢さを」。

 

私は自分のちょっとしたミスで先輩を怒らせてしまった時も、「あれぐらいのことであんなに怒るなんて、先輩は何か別に嫌なことでもあったのかな?」と考えていました。ですが、これは無責任とは違います。私は「やってしまったことは仕方ない。私にできるのは、先輩に謝罪することと再発防止をすることまでであり、先輩の感情を私がどうこうできるはずがないのだから、自分を責めても始まらない。」と考えたのです。

このような考え方をいい加減な考え方だと言う人もいるかもしれませんが、自分を責めて気持ちが落ち込んでしまうよりはずっと良いはずです。仮にいい加減な考えだったとしても、それは“必要ないい加減さ”だと言えるでしょう。