皆さんは閾値(しきいち)という言葉をご存知でしょうか?閾値とは、その値を境にして、動作を変更する基準値のことです。普通の人には耳慣れない言葉だと思いますが、プログラミングなどを行う人にとっては馴染みがある言葉でしょう。
人であれば、「暑くなったら冷房を付けて」と言えば分かりますが、プログラミングを行う際には「温度が30℃以上になったら、冷却装置を稼働させる」という様に、何らかの動作を行う境目となる値を具体的に設定する必要があります。この時この”30℃”という値が冷却装置を稼働させる閾値ということになります。
ここで考えて頂きたいのは、皆さんの中で身近な人に対する”感謝の閾値”はどの程度になっているか?ということです。
心の閾値は上昇していく
仮に、感謝の閾値が10だった場合、人から貢献や献身を10以上受け取った時に感謝をします。しかし、人は人からの貢献や献身に慣れてくると、次第に感謝の閾値が上がって来るのです。以前は感謝の閾値が10だったのが、次第に20になり、30になっていきます。すると、当初のように10の貢献や献身をしてくれても感謝の気持ちは無くなっていき、10程度ではお礼すら言わなくなります。それどころか、感謝の閾値が上がりきってしまうと、次第に”非難の閾値”が上がって来るのです。
貢献や献身が感謝の閾値以上だった場合に感謝が出てきますが、貢献や献身が非難の閾値以下だった場合に非難が出てくることになります。
つまり、以下のようになります。
貢献や献身が感謝の閾値以上だった時:感謝する
貢献や献身が感謝の閾値以下、非難の閾値以上だった時:何も言わない
貢献や献身が非難の閾値以下だった時:文句を言う
仮に感謝の閾値が100で非難の閾値が30だった場合、20の貢献や献身をしてくれた人に「何でたったこれだけなんだ!」と文句を言うようになるのです。例えば、自分のために食事を作ってくれた人に「今日はこれを食べたい気分じゃない」とか「味が自分の好みじゃない」などと言うのです。
本来であれば、自分のために食事を作ってくれた時点で感謝をするべきでしょう。しかし、人からの貢献や献身が”当たり前”になってしまうと感謝どころか文句を言い始めるようになるのです。これはモラハラなどの精神的暴力をする人にも共通した傾向だと言えるでしょう。
客観的に見ると、非常にひどいことのように見えますが、ほとんどの人間がそのようになります。例えば、普段家事をしてくれる妻または母親に感謝しているでしょうか?毎日頑張って働いてくれている夫または父親に感謝しているでしょうか?ほとんどの人が”それは当たり前でしょ”と考えて、感謝を示さなくなります。そのような人たちに対して感謝の気持ちを持ち、思いやりのある言葉や態度を示すことを忘れたくはないものです。
一方的な依存の援助はお互いに損をする
人は、誰かから何かを与えられると、最初は感謝の閾値が低いため感謝しますが、その状態が当たり前になると感謝すらしなくなり、最終的には非難までし始めます。例えば、日本がどこかの国を経済的に援助し、その国は日本からの資金援助で国が成り立っていたとします。そして、もし日本で財政危機が起き、仕方ないのでその国への援助を打ち切った場合、その国の人たちは「今まで資金援助してくれてありがとう」と言うでしょうか?私は言わないと思います。まず間違いなく、「今までくれたものを何でくれないんだ!」と言って非難してくるでしょう。
日本側としては、長年お金を援助してきたにも関わらず、感謝どころか非難される訳ですから、まさに踏んだり蹴ったりだと言って良いでしょう。援助を受けていた国も、援助頼みの経済構造を続けていて、経済的に自立するチャンスを奪われたとしたら、長い目で見れば損をしているのかもしれません。つまり、一方的な依存の形での援助というものは、お互いに損をするのです。これは国家レベルの話だけではなく、ニートの子供と甘やかす親の関係などでも同じことが言えるでしょう。
援助がダメという訳ではありませんが、一方的に依存するような形での援助はダメなのです。例えば、単にお金を渡すのではなく、その国の雇用を増やすために工場を作るための資金を援助したり、農業のノウハウを教えたりするなどの方が望ましかったでしょう。つまり、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」の考え方です。
いずれにせよ、人を助ける時は相手の、人に助けてもらう時は自分の心の中の”感謝の閾値”と”非難の閾値”を常に意識し、それらが上がり過ぎないようにするように気を付けるべきです。助けてもらう時はそれを当たり前と思わないように自分を戒め、人を助ける時は相手が自分に依存し過ぎないようにやり方や限度を考えて行う必要があると言えます。