私が最もあてにならないと考えているものは「感動」です。感動というものは人生に喜びを与えてくれるものであり、それ自体が悪い訳ではありませんが、感動で物事を判断するべきではありません。

 

感動で物事を判断することの危険性

昔、カルト宗教の信者の人がインタビューで「何故この宗教に入ろうと思ったのか?」と訊かれて「教祖様の教えに感動したからです。」と答えているのを見たことがあります。私は、これを見た時に、非常に強い違和感を感じました。今にして思うと、その違和感の正体は「感動できる」ことと「正しい」ことを混同しているところにあったと思います。

言うまでもありませんが、「感動できる」ことと「正しい」ことは全く別の問題です。「感動」は人間の感情が感じさせるものですが、感情で正しいか間違っているかを判断することほど危険なことは無いでしょう。例えば、誰かに投資話を持ちかけられた時、「利益が出ると判断できる根拠があるか」ではなく、「投資話を持ち掛けた人がいい人そうか」で判断していたら、簡単に詐欺に引っかかってしまうでしょう。

本来、「正しいか間違っているか」の判断は数学の証明ぐらいに冷静かつドライな目で見なくてはならないのです。

 

 

素直に感動した方が良い場合もある

“感動できるもの”がすなわち”価値のあるもの”である場合もあります。それは映画や小説などです。映画や小説はそもそも感動させることを目的として作っているのです。そのため、”感動できる映画”や”感動できる小説”は、それだけで価値があるのです。仮に多少安直で出来過ぎた話であっても、それをいちいち指摘するようなことはせず、素直な気持ちで楽しめば良いのです。

また、結婚式で新婦が両親への感謝の手紙を読んでいる場面で、新婦の過去の親不孝や素行不良などを知っている人は、素直に感動する気にならないかもしれません。しかし、別に高い壺を買わされる訳ではないでしょうし、結婚式の時ぐらい会場を包む感動の空気に身を任せても良いでしょう。

感動で何かを判断することはすべきではありませんが、感動が全くない人生と言うのもあまりにつまらないものです。感動すべき時には素直に感動することも人生には必要です。

 

 

感動スイッチを持つ

ベストなのは自分の中に”感動スイッチ”を持っておき、必要次応じてON/OFFすることです。映画を見ている時や結婚式で新婦が両親への感謝の手紙を読んでいる時などは感動スイッチをONにし、政治家や教祖様の話を聞いている時などは感動スイッチをOFFにすれば良いのです。この時に必要なのは、感動スイッチを適切にON/OFFすることが出来る判断力と冷静さです。

ただ、感動スイッチのON/OFFの判断が難しいのは恋愛です。恋愛は「相手のことが好き」という感情によって成り立っている関係です。そのため、感動スイッチを完全にOFFにする訳にもいきません。完全にOFFにした場合、年収や社会的ステータスなどの打算だけで交際相手を決めるような人になってしまいますし、常時ONになっていたら、口がうまいだけのろくでもない相手と付き合うことになりかねません。

そのため、恋愛では感動スイッチをONにしながらも、相手の言動次第でスイッチをOFFにすることができる冷静さを同時に持つことが必要になるでしょう。