今回は、非常にデリケートな問題である「差別」というものについて扱ってみます。世界では人種、民族、宗教などで様々な差別がありますが、我々にとって比較的身近なのは男女差別や障がい者差別などでしょう。
“差別を無くす”ことは”全く同じに扱う”ことではない
差別は良くないものであはありますが、差別を無くすことはそう簡単ではありません。差別を無くすことを難しくしている理由の一つとして、”差別を無くす”ことは”全く同じに扱う”ことではないということが挙げられます。
まず男女差別について論じますと、男女差別をなくすためには、男女間で採用・給与・昇進などの基準については同じにしなくてはなりません。ですが、男性と女性の扱いを完全に同じにすれば、全てが解決するという単純な話でもありません。もし、全く同じに扱うのであれば、女性に「産休も生理休暇も取るな」ということになるからです。そんなことをすれば、女性が子供を産む権利を侵害することになりますし、社会全体でも少子化が進む一方でしょう。
これは障がい者差別でも同じことが言えます。雇用や給与において障がい者を差別するなと言うのは簡単ですが、障がい者を採用するのでれば、会社の中をバリアフリーにしたり、その人のために周囲の人の手を貸さなければならないこともあるでしょう。もし、障がい者を健常者と全く同じように扱えば、「障がい者への配慮が無い」と批判されることになります。
つまり、差別を無くすためには待遇面では”同じものとして扱うこと”と、配慮という”違うものとして扱う”ことを同時に成り立たせなくてはならないのです。
差別を無くすためにはリスクとコストを受け入れる必要がある
差別が無くならない原因はいろいろあると思いますが、仕事において男女差別や障がい者差別というものが無くならない最大の原因は、そこにリスクがあり、コストがかかるからだと私は考えています。
これは、雇用する側つまり経営者の立場で考えてみると分かるかもれしれませんが、もし雇用した女性がようやく仕事を覚えたと思ったら、すぐに結婚・妊娠をして産休に入ったら、それが女性の権利だと分かっていても、”ふざけるな”と思ってしまうでしょう。つまり、女性を雇用するということは、男性を雇用する時よりも肝心な時に仕事に穴をあけられるリスクがあるということです。障がい者を雇用するためには、会社の中をバリアフリー構造にしたり、その人のために他の人が手を貸す必要がありますが、それは余分なコストがかかってしまうということです。
経営者の立場としては、リスクはできる限り回避し、コストを最少化したいと考えるのは当然のことです。となれば、配慮という形で多くのコストがかかるにも関わらず、給与などの待遇面で差をつけることができない人材を雇用することは避けたいと考えるのが自然でしょう。つまり、差別を無くすためにはそれらのリスクやコストを受け入れなければならないということです。
また、働く側としても、「配慮が一切必要無い気楽さ」というものも確実に存在しています。私が学生時代に短期間だけアルバイトをしていた職場では、良くも悪くも無神経な男だけしかおらず、壁にヌードのポスターが貼ってあろうが、どんな下ネタの話をしようが誰も気にしない気楽さがありました。もし、そこに女性が一人でもいれば「セクハラだ!」と言われることになっていたでしょう。働く側にとって、”気遣いが必要”ということも一種のコストなのです。それが無い方が良いと考える人が出て来ることを止めることは出来ません。
結局のところ、仕事において差別を無くすためには、相応のコストがかかってしまうのです。だからこそ、障がい者雇用の助成金制度などがある訳ですが、本当に差別を無くしたいのであれば、単に”差別を無くせ”と要求するばかりではなく、差別を無くすためにはコストがかかるという現実を受け入れなければなりません。その上でそのコストを社会でどのように負担していくかの議論をすることが現実的なところでしょう。